27歳 男性 元公務員 赤島祐司さんのエピソード
あれは大学を卒業して、父親と同じ警察官にろうと決意して警察学校を経て、ここに赴任してきて一年目の秋だった。
県警の刑事だった父親とは違い、小さな町の小さな交番に勤務している僕。
大きな事件もトラブルも無い、たまにあるのは近所の中島のおばあちゃんの家の猫が居なくなったとき一緒に捜索する程度。そんなゆっくりとした時間が流れる町だ。
紅葉の葉が落ちる少し寒い日だった。
非番明けの憂鬱な午後、先輩が巡回に行ったあとに一人の中年の男が交番にやって来た。
男は交番に入るなり机の上に叩きつけるように何かを置いた。
白く四角いそれは、紛れもない石鹸だった。
「銭湯でこれを踏んで転けた! 訴えようと思ってる!」
男は荒々しい息使いでそういった。
「何をどうしたのですか?」
僕は男をなだめるようにそう言った。
「これを踏んで転けたんだ! 銭湯の親父を逮捕してくれ!」
男はそう言いはなった。
「そんなのじゃ逮捕できませんよ。」
僕がそう切り返すと男は眉間にシワを寄せて
「困っている人を助けるのが警察官じゃないのか?」
と唾を飛ばしながら言ってきた。
男の気迫に負けた僕は、ただならぬ面倒臭さを胸に秘め、形式的に調書を作成することにした。
「その石鹸をどこで踏みましたか?」
聴取を始めると、男は質問に対してどこか不満げな表情のまま淡々と答え始めた。
「昨日の夜六時。そこの銭湯でいつものように体を洗おうとしたらシャワー台の所にこの石鹸が落ちていてそれを踏んだ。きっと銭湯の親父が仕掛けたんだ。」
全面的に男のミスでしかなかった。
「親父を逮捕できないのか?」
そう問う男に僕は答えた。
「あのねお父さん、それはたまたまそこに石鹸が落ちていてそれをお父さんが偶然踏んで滑ってしまっただけでしょ? だったらそれはただのお父さんの過失でしかないんですよ。」
それを聞いた男はヒートアップして
「それを逮捕するのがお前の仕事だろ!? 法律の専門家だろお前? なんとか告訴させろ!」
と叫ぶように言いはなった。
僕は冷静に
「あのねお父さん、そんなのでは逮捕は出来ないし銭湯の親父さんんが仕掛けた証拠もない。それに告訴とかそういうの扱う法律の専門家は弁護士とか司法書士さんだから、ここではどうすることもできません。」
と諭した。
すると男は激昂し
「それでも警察官か!? 恥を知れ!」
と石鹸を床に叩きつけ
「あの親父ただじゃおかないぞ!」
と言い捨てて交番から走り去った。
「待てっ!」
追いかけようとした僕は突然何かに足をとられるような感覚に遇い意識を失った。
「大丈夫か?」
目が覚めると交番の天井と先輩の顔があった。
混乱する僕に先輩は
「巡回から帰ったらお前が倒れていて足元にこれがあった。」
と言って何かを差し出した。
石鹸だった。
僕は状況が飲み込めないでいるとそこに誰かがやって来た。
近所の中島のおばあちゃんだ。
中島のおばあちゃんは僕に駆け寄るなりこういった。
「実は今日、主人が銭湯で石鹸を踏んで転けて亡くなってから丁度二十回忌になるの。」
さらに状況が飲み込めなくなった僕に中島のおばあちゃんは穏やかな笑顔で
「この時期になると毎年、あの人を偲んで町の人たちに石鹸を配っているの。」
と言って、レジ袋いっぱいに詰めた石鹸を一つ、優しく僕の手に渡したのだった。
あれから四年。
僕は警察官を辞めて司法書士を目刺しゼミに通っている。
もうあんな悲劇を繰り返さないために銭湯トラブル専門の司法書士になると決めたのだ。
そして今日、僕は司法試験に挑む。
あの石鹸を握りしめながら・・・。
つづく